◆特別展「料亭を飾った屏風展」開催




 ◎山口市菜香亭では、山口お宝展の一環で、平成24年3月3日(土)から4月8日(日)まで、「料亭を飾った屏風展」を開催しました。
 料亭菜香亭が所蔵していた屏風のうち、半数を展示したものです。
 大広間に並んだ屏風は圧巻でした。

 こちらは、狩野幸信(かのう ゆきのぶ)筆の「群鶴図屏風  6曲1双」と、蘆山(ろざん)筆の「蓮・川蝉図屏風  2曲1隻」です。
(※ 下方に作品解説があります)
 鶴のリアルな描写が見事です。



 こちらは、作者不詳の「柳・竹図屏風  6曲1双」と、蘆山(ろざん)筆の「秋草花図屏風  4曲1隻」です。
(※ 下方に作品解説があります)
 墨で大胆に描かれた柳・竹の線が素晴らしいです。




特別展 屏風絵 華麗なる調度品

 屏風は「風を屏(ふせ)ぐ」という字意からもわかるように、風や人目を遮蔽するための調度品として使用された。古代中国では「■(い)」と呼ばれる衝立を席の後ろに立て、天子の権威の象徴としたともいわれている。「屏風」という名称は、すでに中国の前漢の時代には文献に表れ、その表面上に絵を施す「屏風絵」も描かれたとされている。また六朝時代には、漆や螺鈿などを用いた装飾的な屏風も流行したといわれる。一方日本においては、7世紀後半の白鳳時代に、新羅(しらぎ)からもたらされた進物品のなかに「屏風」の名称を見出すことができる。さらに奈良時代には、『東大寺献物帳(けんもつちょう)』に宮廷の調度として「屏風」と記されるとともに、実際に現存するものとして正倉院遺物のなかには8世紀頃の制作とされる「鳥毛立女屏風(とりげりゅうじょびょうぶ)」など数点の屏風がある。ただ、奈良・平安時代の屏風は、現在のような形式ではなく、各面ごとに縁(ふち)をめぐらせて、革紐などでつないだ、あたかもパネルを連結したような形であって、前後に折れ曲がり可能な蝶番(ちょうつがい)による自立形式である現在のような屏風が登場するのは鎌倉時代以降のことである。
 さらに屏風は、中世以降、諸外国に対する日本の輸出品や贈答品としても重宝され、遣明船の朝貢品にもしばしば使われた。たとえば文書に記された例として、室町時代に権勢を誇った大内氏(大内義隆)が、中国への献物用として天文10年(1514)に狩野元信へ「三十五貫文」で屏風一双を注文したことなどがあったという。
 室町時代に、この周防の地に住んで活動した雪舟も、大画面の屏風をかなり制作したと思われ、現在その真筆として知られる京都国立博物館蔵の花鳥図屏風(旧小坂家本)などもある。また近世初期にはヨーロッパとの交易品、つまり南蛮貿易の輸出品としても屏風は使われた。「ビオンボ(BIOMBO)」と発音されるポルトガルやスペインで使われる単語は、まさにこの屏風形式の衝立をさす語であり、当時日本からもたらされた屏風から生まれた言葉であった。
 このたびの展示は、上述のような古い時代の屏風ではなく、近世(江戸時代)から近代(明治時代以降)にわたる比較的新しい時代に制作された屏風絵が中心となっている。それらの画題も、山水から花鳥、人物など様々で、ヴァラエティーに富んでいると同時に、横長の大画面をうまく利用した構成、あるいはいくつかの個別の画面を貼り交ぜたものなど、その形式もまた変化に富んでいる。公式儀礼やお祝いの席などを飾ったこれらの屏風が、どのようなハレの場を演出したのか、そうした思いや想像を浮かべながら鑑賞することも楽しいことでしょう。
                           【監修 菊屋吉生(山口大学教授)】

●作品紹介
 
 ◎群鶴図屏風 狩野幸信(かのう ゆきのぶ)筆 6曲1双
 狩野幸信と名乗った画家は、江戸期において数人いるが、この作品の作者は長府毛利家の御用絵師として活躍した狩野洞晴幸信[生年不詳〜元禄8年(1695)]ではないだろうか。洞晴幸信は、本名を大月喜兵衛といい、興六とも号し、剃髪して洞晴と号した。京や江戸においても活躍し、延宝元年(1673)の禁裏炎上後の御所普請の際にもこれに参加し、のちに長府三代藩主毛利甲斐守綱元に仕えた。また没後、その墓所は江戸赤坂常玄寺にもうけられている。金地に鮮やかな彩色で描かれたあらゆる姿態の群鶴は、それぞれ描写も的確で、すっきりと端正に表現されている。保存状況も良好で、けして地方絵師の範疇だけの活動ではなかった幸信の技量の高さをうかがわせる大画面の代表作といえよう。


 ◎蓮・川蝉図屏風 蘆山(ろざん)筆 2曲1隻
 蘆山と読める落款をもつ2枚折りの腰屏風である。その描き方から、近代以降、大正から昭和にかけての頃に描かれた作品と思われるが、管見のかぎりでは作者を明らかにすることができない。枯れかけた蓮の葉に川蝉が一羽止まり、そこに淡雪が舞い落ちるという独特の風情をもった画面である。描かれる対象は、きわめて写実的かつ繊細に再現されていて、画家の描写力の高さを表している。


 ◎柳・竹図屏風 作者不詳 6曲1双
 金地の6曲の画面に柳と竹を描き分けた水墨作品。残念ながら落款を欠くため、作者を確定できないが、その画風から江戸初期から中期にかけての雲谷派の画人による作品と位置付けたい。簡素な絵柄であり、いささか平面的な描写であることは否めないが、竹の描写に見られるしっかりとした力強い筆致や、片隈風に描かれた雪が積もる柳の枝の伸びやかな描法などには、作者の画技の高さを見てとることもできる。類作などとの関連から、寛文から元禄期に活躍した画家、雲谷等■(うんこく とうはん)あたりを髣髴とさせる画風をもった作品といえる。


 ◎秋草花図屏風 蘆山(ろざん)筆 4曲1隻
 蘆山なる画家の手による4曲の屏風である。金地を思わせるように褐色に塗り込められた地に、色鮮やかに薄、鶏頭、桔梗、ツワブキ、撫子、葛などの秋の草花が描き込まれ、一羽のアゲハ蝶が舞う画面となっている。個々の草花や蝶は、写実的に描かれながら、画面構成は実に装飾的に仕上げられていて、江戸後期の酒井抱一の画風を髣髴とさせる、いわゆる琳派風の近代における翻案としての作品とも見ることができるだろう。


 ◎花鳥図屏風 鴻陵(こうりょう)筆 6曲1双
 春夏秋冬の四季の花鳥が、押絵貼りの形式で各扇に貼りつけられた屏風である。水墨を基調としながら、淡い色彩を施し、素早い筆致で描かれた作品であり、作者の画技の冴えを感じ取れる作品ともいえる。だが、この「鴻陵」と落款する画家については、今のところまったく不明である。ただし、この「鴻陵」という号から、幕末期に徳山藩お抱え絵師として活躍した朝倉南陵との関係を推測することも可能である。落款の書体、筆の運びの特色、花や鳥たちの形態描写、彩色の仕方などには、朝倉南陵との共通の特徴を見出すことができ、もしかしたら南陵の弟子のひとりではないかという推測が頭をもたげてくる。筆者の確定はできないものの、幕末期から明治頃にかけて制作された水墨淡彩花鳥画であることはたしかだろう。


 ◎祇園祭図屏風 作者不詳 6曲1双
 俗に腰屏風、あるいは枕屏風と呼ばれる丈の低い屏風に描かれた祇園祭礼図である。残念ながら無落款であるため、作者は不明である。描写はかなり素朴なものであり、狩野派などを正統的に学んだ絵師が描いたものとは思われない。ただ、時代的には充分遡ることができるもので、江戸初期から中期にかけての時期に制作されたことを推測させる。右隻には、先導する人馬の後に続き、鳳凰などを頭頂に飾った神輿をかつぐ人々の姿が描かれ、さらに左隻には長刀鉾に続く、木賊山、役行者山、放下鉾などを引く人々、それらを町家から見物する人々の姿が描かれる。祭礼の形式、山鉾巡行の様子や山車や鉾の飾り、街並みの様相、人々の服装や装束など、当時の風俗を知る上でも、貴重な屏風といえるだろう。
                      (文筆 菊屋吉生)